三井寺 福家俊彦 (2015年4月2日)
●世界唯一、現存する唐王朝のパスポート ・・・「越州都督府過所」「 尚書省司門過所」(2通)
名 称 越州都督府過所 ・ 尚書省司門過所 2通
指 定 国宝
時代等 唐時代(大中九年 855) 紙本墨書
所蔵者 三井寺(園城寺) 大津市園城寺町 246
海外旅行といえば、いまも必要なのがパスポート。 あまり知られていませんが、三井寺には、9世紀に 唐王朝の役所が発行した「過所」と呼ばれる旅行証 明書(パスポート)が2通伝えられています。三井 寺の開祖・智証大師円珍(814~891 年)という高 僧が、仏法を求めて唐に留学(入唐求法)したとき に携行したもので、「過所」の実物は、この2通し か現存せず、世界的に貴重な史料となっています。 1通目の「越州都督府過所」は、大中9年(855) 3月、円珍が越州(紹興)の開元寺から唐の都・長 安に向かうときに越州都督府が発給したもの。 2通目の「尚書省司門過所」は、同年11月に長 安から天台山(浙江省)に戻るときのもので、中央 官庁である尚書省が発給したもの。 いずれも交付した役所名、出願者や従者の身分、姓名、年齢、携行品、旅行の目的や 理由などが詳細に記されており、この過所を所持した一行が無事に通行できるよう発 給者の署名と官印が捺されています。 この過所を携えて円珍一行は、無事に長安の都に到着し、かつて弘法大師空海も滞 在した青龍寺の法全阿闍梨から密教を修学した後、洛陽を経て江南の天台山に戻るこ とができました。過所の末尾にも、通過した関所の記録が残されおり、円珍が5月1 5日に潼関を通過して長安に向かい、帰路では12月4日に長安を守る名高い関所・ 蒲関を通過した記録が残されており、円珍の旅程を具体的に知ることができる史料と しても貴重です。
写真:「智証大師円珍像(重文) 」
写真:「越州都督府過所」
写真:「尚書省司門過所」
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私の「滋賀一番」 西本梛枝(2) (2015年3月30日)
●日本最古の石積み堰堤…「オランダ堰堤」 (大津市)
「なんてきれいな水!」子どものみならず大人でも思わず水に入っていってしまう。懐かしい ほど優しく透き通った川だ。草津川上流の「オランダ堰堤」の辺り。その昔、平城京を造営する ための木材は湖南アルプスと呼ばれている花崗岩のこの辺りの山々から伐り出された。さらに残 った小柴まで燃料として採取されたため、山はすっかり荒れ山に。花崗岩の山は脆く、植生回復 も難しい。木のない山はひと度雨が降れば土砂が流れ出す。流域は水害に苦しみ、草津川が流入 する大川にも土砂が堆積し、水運航路に支障をきたしていた。そこで明治政府が造ったのがこの 堰堤。オランダ人技師デレーケに調査を依頼。田辺義三郎が設計してアーチ形に石積みした堰堤 が誕生したのだ。これを誰言うとなく「オランダ堰堤」と呼ぶようになった。竣工年が資料によ って若干違うが一応、明治19 年着工、22 年竣工ということになっていて、石積み堰堤としては 日本で最古である。 因みに、河川を守るためには治山が重要、ということを改めて肝に銘じたい。
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私の「滋賀一番」 西本梛枝 (2015年3月30日)
●比叡山延暦寺は〝おみくじ〟発祥の地 (大津市比叡山 延暦寺)
神社仏閣におまいりするとつい引きたくなるのが〝おみくじ〟。そのおみくじの祖は比叡山延
暦寺を中興した がんさんだいしりょうげん 元三大師良源という高僧。平安時代中頃(10 世紀中頃)経済的にも精神的にも
疲弊荒廃していた延暦寺を天台教学の場として立ち直らせ、僧はもとより多くの民に尊崇された 方だ。
おみくじは元三大師が観音さまから授かったという五言四句の げぶん 偈文百枚が起源。これを江戸時
代初めの僧 てんかい 天海大僧正が大師のお告げで発見。これが「元三大師 ひゃくせん 百籤 」となり、番号のところ
に記された偈文を人々は人生の指針として頼みとするようになった。この元三大師百籤は次第に 天台宗以外のところでも使われるようになって、〝おみくじ〟として広まっていった。なので、 比叡山元三大師堂のおみくじは、自分が引くのではなく、お坊さんが引いてくれた籤を戴き、そ こに書いてあることの教えを受けて、我が心の指針とする。
因みに、魔除けのお札とされる鬼の姿の つの 角 だいし 大師は元三大師が疫病神を退散させたときの姿で、
これを戸口に貼っておくと厄難が近づかないと言われている。
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芭蕉と近江 (2015年3月13日)
松尾芭蕉が、膳所(ぜぜ)の地に埋葬されていることを知る人は多くないだろう。1694年、51歳のときだった。木曽義仲を祀る義仲寺(ぎちゅうじ)に埋葬されている。
芭蕉の遺言によるものだが、それほどに彼は近江を愛した。当時、義仲寺があった粟津が 原は、びわ湖に面し景勝の地であったといわれている。 ”行春を あふみ(おうみ)の人と おしみける” 人との出会い、別れ、無常は、芭蕉の句界にとってはなくてはならないものだったのだ
ろう。なぜ彼があれほどまでに旅を重ね、そして”旅に病で 夢は枯野を かけ廻る”と
まで詠んだのだろうか。決して満たされることのない、芭蕉の創作の意思だったのかもし れない。それは完成することのない彼の美学だったのだろう。 Jane Reichhold という人が著した「Basho – The Complete Haiku」という英文の本があ る。その中に ”世の夏や 湖水に浮(うか)む 浪の上” という句が紹介されている。1688年の夏、大津で作られたものだ。 ”the summer world floating in the lake on the waves” と英訳されている。井狩昨卜(いかりさくぼく)の家に招かれたときの作だと言われてい る。 おそらく、びわ湖に面した部屋だったのだろう。暑い夏だというのに、浪が打ち寄せ、まるでわが身が水面に浮かんでいるように涼しく思われる。今でもびわ湖の湖岸に立つとき、 この湖が持つ長い歴史と、水の大きさを感じることがある。
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私の滋賀「一番」は琵琶湖の夕照です。快晴の日の夕刻、沈みゆく太陽は本当にきれい です。夕陽を見送り、すっかり暗くなるまでの湖面の変化を楽しみ、帰宅すると充実した 一日を過ごしたという満足感で豊かな気持ちになれます。写真は瀬田川河口近く、大津 市対岸の帰帆島にて撮影したものです。この時間は釣れるのでしょうか? 数人の釣り 人が糸を垂れていました。 田中三千彦
(2015年3月12日)
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