日本書紀に近江遷都の記述がある。「天智6 年(667年)、中大兄皇子(天智天皇)は都を近 江に移した。『当時、あらゆる近江百姓(おうみ たから)は遷都を願わず、これを風刺する者が多かった。童謡(わざうた)も多く、また連夜のように火災がおこった』と。何故、百姓を「タカラ」 と読ますのか。この疑問が私の頭から離れなかっ た。百人一首や万葉集にヒントはないかと拾い読 みしているウチについに見つけた。我田引水だが、あった。天智天皇の「秋の田の かりほの庵の苫 をあらみわが衣手は 露にぬれつつ」である。 しかしこの歌は天智天皇の作ではないというがそ の理の説明はない。何時の時代でも食糧の自給は重要で当時の時代背景からも「農業は国の基幹」 と重視して、しばしば農民の仕事場を訪れ、農民 にも慕われるようになっていた天智天皇に感動し ていた藤原不比等が書記を編むにあたり「百姓を タカラ(宝)」と読ませ、天皇の想いを、自ら和歌に謳い託したのではないかと推論した。粗っぽ い推論ではあるが一応自己満足の境地に至たった。 古代から近江は稀な豊潤地であった。以上のこと か ら 三 日月知事の「近江平野は世界農 業遺産に値する」という意見に私も賛同 したい。
(大津市 堤 節夫)